宮野 祐/Miyano Tasuku

二人展「アニの宮野イモウトの宮野 −家族と画家の境界線−」

 兄妹という関係は非常にめんどくさいもので、ありとあらゆるものが「兄妹だから」という言葉に回収されてしまう。本展もともすれば、兄妹の仲良しごっこに見えるだろうが、実際の兄妹というのは思いの外お互いのことを知らないし、意外と他人であるものだ。本展の企画においても文字通り淡々としたやり取りの繰り返しであったように思う。しかし、それはただこの二人が不仲であるということでもない。それぞれが描くという行為に集中し独立した作家としてこの展示を作った結果、そうなったに過ぎない。
 それでも鑑賞者は私たち二人の作品に兄妹としての共通点を見出しながら鑑賞するかもしれない。別にそれ自体を否定したいわけではない。確かに私たちは他の作家たちと比べれば明らかに一緒に過ごした時間が長く、無自覚に共有することが多いのは事実だ。前述した通り、展示の目的は仲良しごっこを見せびらかすことではないが、もし私たち二人の作品に何か共通点が見出されるのならばそれは、私たちが一人の独立した個人として制作しても逃れられなかった無自覚な「きょうだい性」の現れなのだろう。作家は自身の作品をコントロールしているように見せつつも様々な要素に無自覚に影響されて制作しているものである。本展においても私たち作家が気づけていない無数の影響関係が作品同士に発生していてもおかしくは無い。その影響関係が作家としての独立した自己の限界であり家族の領域の入り口つまりは家族と画家の境界面である。どんなに個人として独立しようとしても私たちが家族でなくなることは無い。その中で作り上げられる呪いにも近い共有された言語が少しでも外に提示できたならば本展を開催した意味があったと言える。

〈個別ステートメント〉
・宮野 祐
私の作品は今まで物語を明確に決めてから、物語に沿う形で制作を行うことがほとんどでした。しかし、その方法では自分の思い描いてることの再現という狭い意味での制作にしかならない上、作家である自分が既知のものしか制作できないと限界を知りました。今回は物語を明確にせずに、絵具を置いていくことからはじめ、次第に描くべきものを決めていきました。また、あえて同じモチーフを別の作品に登場させたりドローイングを挟み込むことで共通の物語や世界観が存在しているように偽装してもいます。絵画は作家のその時の瞬発力、油絵具という乾きが遅いメディウムによって作家自身が想定し得ない偶然性を内包していくものだと思っていますが、今回はそうした偶然と必然のせめぎ合いを十分に作品に取り入れられたと感じています。

・宮野野乃花
 遺伝子は受け継がれている。私たちは太古の昔から今に至るまであらゆることを複製し、分け合いながら受け継いできた。それは、私の指が五本あることや、お腹がすくことのようにごく当たり前に日常に溶け込んでいる。私たちは記憶を共有していることには気付けない。無意識の中に大量の人間の記憶や体験が蓄積されている。

 思い出せないだけで、私たちは本当はすべて知っているのかもしれない。
 私がまだ存在していなかった頃、人間がどんなことを思い、考えていたのか。過去の写真や遺物を見て共感しようとしてもその答えは決して姿を見せないが、私たちの体の中、それこそ目に見えないナノサイズの組織の中にそれらは眠っているのかもしれない。

 しかし答えはやはり出ない。脳をたたき起こして、過去の景色に思いを馳せることなどできない。私たちにできることは、今や失われた肉体に一つの人生があったことに気付き、私たちの中に眠る記憶のあまりの膨大さに立ち尽くすのみである。

2024年03月01日(金)ー2020年03月06日(水)
12:00〜20:00
新宿眼科画廊
(東京都新宿区新宿5-18-11)

Photo by 新宿眼科画廊